リチャード パワーズ『オーバーストーリー』
(木原善彦氏翻訳/新潮社)
この物語を読み終わったあと、窓の外で風に揺らいでいる木々をとても近しい心持ちで眺めた。それらは昨日まで見ていた木とはもうまったく違っているもののように見えた。
ぼうっとしていることの多い私は、だいたい空や水、そして木を眺めている。それでいつも感じることは、木というのは地球上にある「完璧な」生命のうちのひとつだということ。温度を保ち息をする、美しい規則性の造形バランスで静かに自立する木は完璧な存在、もちろん「完璧」というのは不死という意味ではなく、倒れてもなお、朽ちて土に還り未来へ命をゆだねる。そうやって、微生物から天体まであらゆる存在しうるものとの共生・循環、呼吸と知恵のある生命として、一本の木は生きている。
「完璧」なのに、木には自分で出来ないことがただひとつだけあり、それは、身の危険を感じても逃げることができず、自らを守ることができないということ。個体としてそこに立ち根を張るその生命は、その場から物理的には動けない。けれども、胞子が飛び散って、鳥が子孫を運び、風が枝葉を揺らすことによって、ほんとうは木も移動はできる。それに木同士で遠隔の対話や情報交換さえ出来るらしい。そうして「木という全体」は旅しながら生き延びていく。いけるはず。
それなのに、木にとってどうしようもない危機というものが人間の独りよがりな判断によってもたらされる。人間の知性や知能には、計り知れない発展の可能性がまだ潜んでいるのか、それとも限界のなかでただぐるぐる回っているだけなのか、人間とはよく分からない生きものだ。慈悲深くもあるが永遠の無知でもある、残虐なことをもっともらしく麻痺した顔でする無神経さもある。それに対してさえ、木そのものは怒りや恐れを持たない。攻撃するという手段を木は持たない。そもそも木は、ものごとを判定しない。大木が倒れる時にその下敷きになるのは、人間がみずからとった行動への結果でしかなく、木そのものの意志ではない。同じようにその木の下、木陰には人間を迎え入れ雨風や灼熱から守るのも木の特別な意志ではなく、木とはただ、そういうものであるから。
この物語のなかでは、木をめぐる現実社会や人間心理がとてもきめ細やかに描写されていて、アメリカにはこういう人たちが実際に、それぞれ日常的にいるんだろうなと想像できた。文章が(翻訳の良さももちろんあるのだろうけれど)テンポ良くとても新しく、ユーモアもある。それでいて、あらゆるところに専門的な豆知識が何気なく埋め込まれているので、ただあらすじだけを追って読み進めていくだけでは勿体ない。そして見事なまでに全く違うタイプの登場人物ひとりひとり、それぞれの性質に引き込まれ、気づけば読む方の情感まで一緒に動いている。
ところでこの日本語翻訳版は製本や装丁が美しい。(ハードカバーや栞紐の色合いも好き。)この本の英語原語版も家にあるが、ペーパーバックでなんとなくそっけない。とにかく「読むこと」重視の作り方。本とは読むものなのだからもちろんそれが正しいのだけれど。本好きとしてはやっぱり、ほんの少し物足りない。日本にはやっぱり本そのものに対する(内容に合わせた)美学があって、そういった、原語版よりもはるかに美しい造形の日本語翻訳本というのは私が持っているだけでも他にもたくさんある。特に、作家や内容が好みの本が装丁の美しいものであれば、それだけ幸せな気分になって読む時間が数倍にも豊かなものになる。
