さして特別なことのなかった今日という日は、思い出として残らないただ通過しただけの無となるのだろうか。十年先、一年先、一ヶ月先、一週間先でさえ、私自身の記憶にはもう何も刻まれていないかも知れない。それとも、たまたま見た雲の面白い形、遠くを走る自転車の大きな車輪とタイヤの細さ、隣家の窓辺で部屋のなかを覗こうとしているスズメの姿、いそいで横切っていく野鳩のスピード感とその嘴にくわえられていた橙色のなにか、ふわふわと下から上へ浮遊する意思を持った数多の宇宙船のような綿毛の動き、それらがすべて今日のこの日に視た光景であったのだと、二十年後になって不意に思い出すことがあるとでも、いうのだろうか。なんということのない一日だったとしても、ほんの些細なことの寄せ集めが、あるとき塵や埃となって押し寄せることはあるのかも知れない。
記憶は、脳内という演舞場の天井に鱗のようにこびりつき、気まぐれにぽろぽろと剥がれて内部に落ちてくる。私の意識はその演舞場で踊っている。演舞場の丸く高い天井から、鱗が容赦なく落ちてくる。するどく青光りするその鱗が、記憶である。意識の手をとり共に踊る意志は、降りかかり突き刺さる記憶や思い出に対してまったく無防備に、踊り続ける。意志はどれだけ強くても、記憶から意識を守ることはできない。
守ることができないのであれば、せめて自らを傷つけることのない記憶を新しく重ねていくしかない。今現在の出来事は、この先の未来の、思い出となる。繰り返しよみがえる今までの記憶は、あいかわらず痛く悲しい。記憶そのものが、理由なく苦である。どうしようもないことは、たくさんある、むしろ、どうしようもないことだらけだ。だからなにもしなければ、忘れたいような記憶の方にこそのみこまれ、するどい鱗を浴び続けながら生きるようになる。いつしかそれが、生きる刺激と置き換えられ、肯定された麻薬のようにさえなって。生き抜くためのそういう定めが、生態として人間のなかに深く組み込まれているのだろう。だからといって私はそれに決して甘んじない。私はその仕組みに抗って、そうでないものを、悲しくないものを、苦しくないものを、注意深く集めるようにして日々を過ごそうとしている。未来の自分自身や、誰かを苦しめたり悲しませるような(記憶という)過去を、私はもうひとつたりとも作りたくない。そのために日々を真剣に生きている。軽やかで晴れやかな、未来の思い出を作るために。なるべく良い一日を過ごすことができるように。未来に苦しみを残さないように。
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