過去が、何かを掴み取ろうとする脅威的な巨人の手のように覆いかぶさってくる。
なんということのない出来事の、これまで何十年と重ねてきた、いつも通りの他者とのやり取りが、とたんに、もう遠いもの、場所も次元も時間軸もなにもかも遠く、遠いという表現さえふさわしくないように思えるほどの、もともと異質であるもの、そんなようなものが私から、遠のいていく。
あるひとつの他者とのやり取りはそれ(それ、というのは過去のこと)を、「いま」の私の目の前に、生きたまま差し出してくる。それはまだその掌の上では生きているのに、私の掌に受け取られるととたんにもう、息絶えて色をなくす、燃え尽きた灰のような、その形さえも残さない。差し出されたそれらは、他者の世界ではたしかに息づいているのだろう、けれどもそれらが息づく「そこ」には、私はもう、生きていない。
過去が私から遠いのか、私が過去から遠いのか。まるで軸索のないふたつの神経細胞のように、過去と今がぷっつりと切れて、つながっていない。そこに自分が属しているとはとうてい感じられない。異物。
他者から差し出された「過去」を私は、一体どうすれば良いのかと逡巡しているとそれは、私の上に無遠慮に、全体的に、かぶさってきた。
そうだ、私にとってのこれは、差し出してきた他者にとっての「現在進行形」であるのだ。そうして私を手中に包みこもうとするのだ。私の「現在進行形」のうえに、かぶさろうとするのだ。
私は窒息する。自分がいま立っている場所を、朦朧と薄れゆく意識のなかで見失う。
「あなたはいま
どこであなた自身を生きているのか。」
声がする。意識が戻る。異質な「他者の現在進行形」を振り払う。拒否すれば抵抗として跳ね返ってくる。だから、丁重に、静かに返す。
私は「いま」を暮らす。過去にも未来にも属さず、「いま」にしか生きていない。
なにものにも囚われず、懐かしさという感情物語の重石に縛られることなく。変容しながらしなやかに生きることの、価値を手放しながら少し先を漂うことの、何が間違いだというのか。他者はなぜ、すべてを過去に閉じ込めておきたがるのだろうか。「過去の自分」というものは、驚くほどその実体をもたない。そして往々にして、他者の記憶から取り出され差し出される私は、もう実体のない私。「実体のない私」は、他者の持ちものであり、私のものではもはやない。
2019
38