対話
「売り買いの話をしてやろうか。」
今しがたアスファルトに落として割れたばかりの木の実を尖った口先でついばみながら烏が言った。
「何のはなし?よく分からないよ、聞いたって面白くないのだったらボクは聞かないよ。」
耳の垂れた白黒の犬がキョトンとした目で答える。躰はとても小さいが瞳は丸く大きい。犬はその目でものをよく聴く。
朝は霧が濃く、世界そのものが白葉紙で包まれた高級品のように、開封されるのを静かに待っている。木々は血潮を枝の先まで巡らせて、眠りの準備に入る。木の実は今が一番の食べごろだ。烏は群れずにいつも独りで過ごし、アスファルトの形状や木の高さ、道の往来などを知り尽くしている。
「なぞなぞなんだが…」
もったいぶって烏は横目で犬を見る。香ばしい実の部分を殻から取り出しているところだった。
「うん、いいよ。なぞなぞだったら分かるかな。」
烏はこの、一定の距離を保ちながらただ見つめてくるだけの小さな犬をあざけり半分、興味半分でどちらかといえば好ましく思っている。
「売ることも買うこともできることってなーんだ。」
「わかんない。」
「ちょっとぐらい考えてみたらどうだい。首をかしげてみるポーズさえもしないんだなキミってやつは。まあいいさ、答えはケンカ。喧嘩を売る、売られた喧嘩を買う、って言うんだよ。」
「ふーん、知らないや。」
烏はきゅいっと呆れたように首をねじらせたあと、ぴょいぴょいと跳ねて少し前進する。
「もう行っちゃうの?今日はもうこれでさようなら?」
犬は烏のことを好きでも嫌いでもない。ただいつも、この自分とは違う生命体は何をしているのだろうと観察するのが日課なのだ。近寄られるのは好きではないし、そのまま飛び去って行くのもただ静かに見送る。来るもの拒み、去るもの追わず。
「さよならなものか、まだ本当の話をしていない。」
烏は首だけをねじらせて犬を見つめる。爪の先まで真っ黒に輝く烏の躰にはところどころ白くて薄い斑点が飛び散っている。なぜこの烏はいつも独りなのか。その斑点はおそらく知っている。
「それじゃあね、売ることはできるが買うことは決してできないものはなーんだ。」
ついさっき烏に呆れられたから、犬は今度は少しだけ考えてみた。観察が好きな犬にとっては考えることも別に苦ではない、ただ単純すぎるために考えるということについて考えてみないだけなのだ。
「買うことができないものって、それは形のあるモノじゃないよね。だけどケンカだってモノじゃない、うーんと、買いたくない、買わなくていい、のじゃなくて買うことができない、てことだから、うーんと。」
「よろしい。良いところまでいったからもう教えてやろう。」
烏は急にせっかちになった。
「答えは恩だよ、恩。分かるかい?」
きっと犬には分かるまいと烏は先回りして尋ねた。
案の定、犬には恩の意味など知る由もない。「オン?」と犬はおうむ返しをした。
「恩ってのは人間の好物さ。自分が困っているときに誰かに何かをしてもらったとか、助けてもらったとか、そういう行いをしてもらったらそれに感謝するのは当たり前の話だろ?そのありがとうって気持ちを起こさせるものをわざわざ恩と言ったりするんだ。」
先ほどから、からかい半分に近くの木々を渡り飛んでいるカササギに気が散って、烏は少々まとまりのない説明をしたが、犬には届いているようだった。
「あ、ボクそれ知ってるよ!」
犬はヤシの葉のように大きく垂れた両耳をゆらゆらさせて楽しげに躰を振った。
「ありがとうってとっても嬉しい気持ちなんだよね、大好きってなるよね、人間はよくボクに、お前は愛そのものだと言ってくるけど、それってオンとは違うの?愛ってなんなのかわからないけど、でもそういうのをオンって言うんだね。へーえ、知らなかった、知らなかったなあ。」
突然おしゃべりになった犬に合わせるかのように、カササギが木の上から挑発的な声を出し始めた。決して美声とは言えない。
「見てごらん、こういうのが喧嘩を売るってことだ。さてこの喧嘩、買ってよいものか。」
苛立ちまぎれに烏は言うが、その反面、恩を愛とごちゃ混ぜにしてしまった犬の感性に戸惑いつつ、次は愛についてのなぞなぞをしてみようかと思案した。しかし愛とはなにか、烏にはどうでも良いことである。すべては人間の好物である、それが烏の答え。
「待て待て、謎解きがまだだったから手短に、恩は売ることがあるが、買うことはできない。恩ってのは受けとるもの。欲しがるようなものでもない。しかも売るような恩はキミの思うようなオンではない。それだけは忘れないように。恩は売るものではないし、ああそうだった、あと、恩を着せられるってこともある。オンを売られそうになったら、買うことは出来ないのでいりませんとはっきり断るのだよ。オンを着せられそうになっても、寒くないので着なくていいですと跳ね除けるのだよ。いいね。」
そわそわと心は半分の様子でそのように告げると、烏はすぐさまカササギのいる木へと飛び立っていった。犬はぽかんとしてその姿を目で追い、鼻先を微細に動かしながら、烏の羽音と黄色く乾いた葉のひらひら落ちてくる音をじっと聞いた。
道に残された木の実の殻に鼻を寄せたあと、犬はくるんとひと回りして人間の顔を見上げる。烏とどんな話をしたの?と人間が訊く。オンは買えないし、愛ってなんだろうか。誰も説明できないが、誰もが知っているものなのだ。ただ忘れているだけなのだ。ここに居るよね、ボクもあなたも。犬は幸せな気分だった。
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