35 スケッチ

 

 

 

スケッチ

 

9月が冬の顔をして感性の棘は鋭くとがるその先がより光る

皮膚に埋もれた凹凸が飛び出してくる疼きを隠しもち

緑色をした冷気にあべこべな風が吹くこの空の下で

現在という水玉模様に乗っている

 

言葉とはとどのつまり人間おのおのがおのおのの真理を伝えたいわかってほしいという欲求のためにあるものでありそれぞれの意志の交換や相互理解のためにあるのではないなぜなら言葉の意味が「言葉を発する者が相手に理解して欲しいように」正しく伝わることは不可能だからでありそれと同様に言葉を受け取るほうが「受け取りたいように理解できるように」しか聞いていないからでありそれが人間同士の言語を通した摩訶不思議な交流の限界なのだからうまくいかないからといってまどろっこしく説明を重ねる必要はないし誤解に絶望することも意味がないしなぜそうなるんだと怒り狂うこともただの無駄なぜならそれが人間の限界地点なのであるのだから言葉を介した交流において人間おのおのの真実に任せて言葉は浮遊させておくというのが自然な調和を生むのですつまり言葉に期待しすぎない依存しないことそしてときには沈黙を。(呼吸)

 

 

意味から離れてちぐはぐに使われる言葉は悲しい。中身のない空洞のような言葉は虚しい。明確で中庸な目的のある言葉は清々しい。ごまかしとしての言葉は濁っている。飾りとしての言葉はこそばゆい。遊びとしての言葉は美しい。凶器としての言葉には価値がない。盾としての言葉は潔い。言葉において真意はどこにあるのか。言葉のなかに必死に隠そうとしているものは一体なにか。

 

 

「なにもない」ということを説明するために「在る」ものを持ち出してくることの滑稽さ。「ないものはない」それで充分でしょう。

 

 

となりの坊やが赤くて丸い棒付きキャンディーを誇らしげに舐めてこれはフランボワーズの味なんだと見せてくるので、わあいいな、きれいな色、美味しそうねと返すともう何も聞いていなかったので私もまたなにもなかったかのように白ワインをひとくち飲んで食事を続けた。帰りしなに小さな手を振っている坊やの口元から、はみ出している細い棒がどこか心許なさそうでほんの少し感傷的になったのは、あのころとても幼かった甥っ子たちの可愛らしい頬のふくらみを思い出したから。秋には彼らのお誕生日。あの子もこの子もこれからの人たちみんなに、明るく軽やかで優しい世界を。

 

 

35