30 スケッチ(2020)

 

 

 

スケッチ

(2020)

11篇

 

 

ウシ。

その筋肉は朝日を浴びて隆々と。子どものウシがまわりを軽やかに、跳ねて遊ぶ。

いかにも重い大きなウシの、全速力で疾走する姿の、ドスドスドスという音。

草を食み、今日も味わう微生物たちの効能。太陽の乾いた味、朝露の柔らかな甘味、新緑の爽やかな旨味。日により時間により、味はさまざま変化する。

同じ味などひとつとしてないà la carte.

おととい昨日今日明日あさって、そのもっと前ももっと先も。ウシは知っているだろう。日が昇るたびに、まったく新しい一日が始まるということを。一日は一生の長さとなり、一生は一日の長さとなり得ることを。同じことの繰り返しなど、あるはずもない、ないのが当たり前だと。

 

 

 

 

朝一番から太陽が、そのまま部屋に潜り込んでくる。一日がこうやって、部屋の隅々からはじまる。内側から膨らみ、ほぐれるように。

 

 

 

長さ足りず幅が余るカーテンに、西日射すキッチン。露呈するアンバランス、漂う不完全、継続する線、延長する熱、熟れすすむ果物、日々のこと。

 

 

一本の線が、波と光のいたずらで文字のように揺れていた。

撮ったものをあとで見ると、それはもう文字ではなく、

水に浮かぶただのロープだった。

動かない水の上のロープは、ロープでしかなく、

文字へと変化のしようもない。

一体そこになにが綴られていたのか、あとで解読してみようと楽しみにしていたのに。

水面で揺らいでいるその時に、しっかりと読んでおくべきだった。

 

知っていても使わない言葉、使いたくない言葉、というものはたくさんある。

それと同じように、

使いたいのにうまく使えない言葉、というものもある。

内面世界をなるべくバランスよく、正しく、とは言っても

正しさの概念にはいつも不明瞭という矛盾がつきまとうのだが、

なんであれ何かを明確に伝えるために、

それにふさわしい言葉を表現をいつも真剣に探している。

それと同じように、

自分以外の人が使う言葉にも、

その中庸性とその向こうに覆われた心の真実を見つけたいと、試みている。

 

 

 

真っ暗な夜道を友人と二人きりで歩いているとき、なんか出そうでコワイと言うので、目に見えないものの存在より、人間がやることの方がよっぽどコワイよと私は言って、友人を余計に震え上がらせてしまったあの日。私もコワかったから、強がっていただけなわけだが、基本的にその考えはあれから何も変わっていない。

 

 

 

静かな角から流れを観察する。

影を集めて、放射を支える。

光の溜まる場所が饒舌であるほど、

この角に居てしばらく沈黙を決め込む。

思うようにすれば良い、好きにすれば良い、

静観しているだけの存在、

それもひとつの娯楽。

 

 

日の出が1分ずつ遅くなり日の入りは1分ずつ早くなる。

律儀に一日2分ずつ、日が短くなっていく。

じわじわゆっくり始まりと終わりの両方から、

押され挟まれとしながら。

そのようにして着実に巡る季節を感じ、黄色に染まる木立のことをもうすでに考える。

せっかちなのは、時計とカレンダーの数字のせいだろう。

今はまだ七月なのです。

 

 

冬の雷、凍る雲。

道の端で円を描きつつ丸く踊る枯れ葉と塵、

帽子を押さえて身を縮ませ歩く人、

裏返る看板、揺れる木々、宙に流される鳥の飛翔、

はためく旗、しがみつく洗濯物、

屏風に描かれた龍のような形相の、犬。

 

風の強い一日、その音に四方八方から囲まれる。

音だけ聞こえて形も色も見えない風を知る方法について、

つまり肌を通さない風の存在を証明する術について、

思いつく限りのことを頭の中で並べていると、

冷たい風にせっつかれて足がもつれた。

 

 

 

雨の日に限って、放牧されていた羊たちのことが忘れられず。

 

いたって純粋に考えてみると、自分以外の人間に対して「私のことをどうか忘れないで」という懇願は、どう絞り出してみても発想そのものが自分のなかにはない。

それよりむしろ「私のことはどうか忘れて欲しい」という強い願望がある。人の記憶の中に飛び散ってきたであろう、私という存在のシミをことごとく消してまわりたい。

思い出すということさえ思い付かないぐらいに、もうもともとなかった存在としたい。

 

人の記憶の箱のなかにあるものは、すべてその人のものである。

その人の記憶の中にある「私」は、もうこの私ではなく、その人のものである。

人のものは、どうにかしようとするものではなく、どうにかできるものでもなく、人のものを奪ったり消そうとしたりするのは不可能で、いけないことだ。

「人の記憶から、私の存在をすべて消してまわりたい」と願う私は、

ただの泥棒なのだ。

 

自分自身の記憶でさえ、自分でどうにかできるのかと言えば、それもまた至難の技であり、忘れるとか忘れないとか、そういう次元の話をしている時点でもう、

私は雨の日の羊に、到底なれはしない。

 

 

ロスコを知っていたのなら。

 

さあみなさん、今日は好きなように絵を書きましょう、と先生がにこやかにいうので、画用紙いっぱい、半分を真っ赤に、もう半分を真っ黒に塗りたくってみた。なぜそうしたのかは自分でも分からない、しかしとても愉しかった。

 

あらあなた、こんなことしちゃいけませんよ、と先生が一瞬ぎょっとした表情をして、大きな声で諭すように言った。さっきまであんなにニコニコして好きなようにしていいって言っていたのにな。先生はもう笑っていなかった。

 

先生はロスコを知らなかった。

もしロスコを知っていたら。もしかしたらそのとき、生まれて初めてロスコの画集を見せてもらえたかも知れない。あれは小学一年生のころ。

 

 

 

この世界において、何者かであろうとして、何者かであらねばならぬと、もがきながら見えない道を無理やりに歩いてきた。この世を生きるとはそういうことなのだと半ば盲信して、何者かでなければ価値がないのだと思い込んで。

 

はっきりしない偶像のために自分自身を置き去りにした。実在の自己を無視して、偶像だけを指針にした。そのことに対してなんの疑問も生まれなかった。

 

何者かでない生き方があるのだ、私は何者にもならなくて良いのだ。

 

目の前で、落ちて漂う葉にどんな価値があるのか。その枯れた葉は何者であるのか、などと考える隙間はない。ただそこにある。木と空と繋がり、土と水へ還るもの、落ち葉はそういうものだとただ捉えているように、人間の生き方もそう眺めていられるような、安穏と肯定された気分だけがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

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