28 ある四月に

 

 

 

ある四月に

 

 

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言語は誰のものでもないし、誰にとっても聖域であるのだろうし、言語の「正しさ」はもちろん重要なのだ、だが、言語には人間の営みと風土とともに常に変化しつつ生きていくしなやかさがある、のだからもっと自由でいたい、ひとりじめしないで広げて与えてほしい。という風に、このごろよく考える、日常的に母語に触れることの少ない人間として。

 

 

 

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やかんでお湯を沸かしている、やかんの底のその裏側で弾けて踊る水滴、じりじり熱に接続するエレキギターの音色、ロックなやかん。

 

 

 

上も下も前も後ろも右も左も境界線も重力もなにもない世界では、 物質がそこに在る、物が落ちる、はみ出す、ずれる、こぼれる、とは言わずに「散らばっている」「散っている」という言語表現をすることになるのかも知れない。

と楽しそうに語っている人がいて、ほおなるほど、ということは、

あちこちいろいろ雑多に散らかっている部屋はイコール宇宙空間、ということになるのかなと考えてみたら、ああ確かになかなか楽しげだな、と私も思った。

どこにも何にも固定されない、自由。

 

 

 

これは私の(自分の)ものだ!と一度信じ込んでしまったものについてほど、実はなにも知らない、たとえば内臓とか誕生日とか、感情など。

 

 

柔らかく照らされると、遠いものはつぶつぶの、粒の集合体になる、対岸の物質も向こうの月もみんな小さなつぶつぶ。

 

 

 

指紋の溝は透明ですべらかな気体により埋められ、手の先からあらゆる物体が落下していく。ぶうわりと膨張した体温の膜、どしゃぶりの音に包まれる台所は、踊る夕方。言葉を探すところにのみ、あらゆるもつれや矛盾からの逃亡先がある、雨の一日。

 

 

 

うん、そうだよねそういうことってあるよね、あるんだろうと私も思うよ、と軽やかに返事ができる人間でありたいなあ、たとえ目の前の人の喉元からどんなに突飛な話が始まったとしても。

 

 

 

そこからペリッと剥がしたい、そうそう、むかし膝小僧の、乾いたかさぶたをつまんでえいっとやったみたいに、そこの雲たち、あともう少しで、晴天なのだから、空色のみずみずしさをさあ思い切って、見せてくださいな。

 

 

 

不覚にも、偶然見つけてしまったメモ書き、みずから記し残していたにも関わらずまったく覚えのない綴りは7ヶ月前の痛み。

この体温と鼓動と生命のリズムと手触りと音をどうしても、体感の記憶として少しでも多く残しておきたいと必死になって、たたかう小さな身体、柔らかく温かい命を腕の中に包み込んで、

無臭の高潔な毛に顔を埋め、呼吸の運動に合わせてずんずん小さく丸くともに揺れていたあの日。

 

 

 

今日の太陽は一日中、朝日から夕日までぴかぴかと、白く広く光っていた、それはまるで鏡に反射した強い光のようだったのでもしかして、太陽さえも何か別のものに照らされているのかなと錯覚するような日だった、それで太陽はみずから輝くものだとまったく疑うことなく信じてきたことの方がむしろ、まるごと不思議な現象だとふと思った。

 

 

 

 

 

 

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