水色の水曜日に、金色の3が空を飛んでいった。午前中の台所で、眼前の窓向こうに。
3歳だろうか、30歳だろうか、103歳だろうか。今日も誰かの誕生日。握りしめた手の隙間から紐が逃げ、またたく間にあてのない浮遊をはじめた金色の3。ふくらんだ立体的3。空高く遠ざかる数字を見上げて、3歳は泣くだろう、30歳は笑うだろう、103歳はどうだろう。
午後の早い時間、湖畔で散歩。水面、空、向こうの丘、そのまた向こうの山々が、そのさき遠くのまた空へと、いくつもの濃淡のなかで次々とつらなり、道を示す。そのさきへ、いずれ行かなくてはならない。行き方をまだ知らないだけで、道はすでに与えられている。
視界のすべてはうす明るく、水色の絵の具のみで描かれた風景画、もしくは加工された風景写真、透き通った軽い空気。
これは見事に、水色だ。この色は水色だと疑わない水曜日。
それにしてもなぜここは、こんなにも静かで安寧であるのだろう。世界は、暗く重く厳粛たるものなのではないのか、世界はじつは、ただ軽やかに美しいだけのところ、であるのか。
冷えた白ワインの瓶一本を、飲み干すのにあと何日かかるだろう。夕食に合わせてグラス一杯、それでもう、じゅうぶん。毎晩飲んで、顔を赤らめて、それで今日は何日めだろう。
赤く染まったスパゲティボロニェーゼ。火照った顔に負けない赤さ。紅い顔に小さく飛んだ朱い染みを、ぬぐった指でつまむワイングラス。冷たい白ワインの、その軽やかさはちょうど今日、この頬に浴びた湖からのそよ風と、おなじもの。
夜の入り口は日ごと真面目に近づいて、朝の迎えは遅れがちになり、まだかまだかと待たされる。夏はもう終わる。うすい水色の世界はもう、濃紺色に塗り替えられている。冷えた空気が鼻の奥に、ミントのように染みる夜8時半。
2021年 夏
8