9 ある七月の雑記

 

 

 

2021年7月20日火曜日

人格というものを形であらわすとすれば、それはきっと球体なのだ。 人間の世界は、球体がおのおの転がりながらふれあうことで成り立っている。宇宙という大きな手のひらのなかで、色も材質も大きさも様々に、つややかな球体がいくつも転がされている。籠の中で転がる色とりどりのビー玉、水に浮かび屋台で売られているスーパーボール、台から吐き出されるパチンコの小さな銀色の玉。 そういえばR.バルトが『表徴の帝国』のなかで、パチンコの球が「下痢」していると書いていたのが面白かった。

 

ひんやりと仄暗い美術館の一角に鎮座させられていた銀色の球体は、さながら人格のサンプル、人格の見世物のようだった。

 

 

球体どうしは、それぞれの球体の一部分だけで触れ合う。ころころと自転しつつ、他の球体とふれあいながら空間を転がり移動し、また別の表面で触れ合う。触れ合う面積量はいつも変わらないが、部分は常に変わる。部分は球体のほんの一面であって、球体の全体ではない。人格が球体なら、お互いに触れ合うほんの小さな面積の一部分だけが、そのもの(相手)の全体なのだと、人は意識も持たずに軽々と信じている。ときに月は、大きな平面の三日月型に見えていて、そのとき球体としての月の実体やその裏側の影のことは忘れている。光があたり、照らされている部分だけが月そのものだ、と見ている。それと同じこと。 もし、球体同士が狭く限られた一部分だけでくっついたままであったら、球体それぞれの自転は止まる。自転が止まれば球体は移動(生命)の自由を失う。 あなたが自転すれば私も転がる、私が転がればあなたもまわる、あなたは私に回転する自由を与えてくれる、私もあなたに動く自由をあげたい。

触れ合うからこそ動く、立体的で流動的な人間性。それだからいつも、関係には少しずつの変化があり、新しい発見があり、関わりあうことがもっと刺激的になる。人間はともに転がりながら、生きている。私たちはみな、ころがる球体なのです。

 

G.リヒター銀色の球体(Kugel III,1992)に寄せて

 

 

 

 

 

 

9