記号愛好者
意味も理由もなくただ、記号というものが好きな記号愛好者。
文字を造形や記号として観るところに、もたらされるものは神経の鎮静。散らばった集中力の回収。
記号愛好者は、余白を取り入れた空白のなかに文字が整然とたくさん並んでいるという理由で、本が好き。
楽譜も記号の集合体。
楽譜を目で追うということは、脳内で音を聞くということだ。
記号愛好者にとっては音楽は「楽譜の楽しみ」なのだ。
音符記号たちは五線譜の上に散りばめられ、線で繋げられ空間に囲まれている。ほんの少し息苦しげに。
文字のように並べられた記号ではなく、五線譜の上に拘束された絶対的な指示記号。五本の線に絡まれて捕獲されている。たとえそれらが絶対的でなく相対的な定義を持つものであるにしろ、規則を伴う以上はその奴隷制から完全に離れることはできない。
楽譜に埋め込まれた数々の(音にあてられた文字としての)詩たちは、
詩作としての段落や行間や文字列の並びはすべて解体され、ただ横一線に表記され、流れてゆく。
そういう言葉たちは、音楽の枠に囲まれ、別物にされた、まるで囚われの身。
意味だけが漂う、上澄みのように。
音楽と詩は、対等であるとは決して言えない。
けれど、記号と上澄みさえあれば「音楽の立場」からすればもう十分。
音楽は、まず音ありき。
存在させたい音をより緻密に「再現」させ続けるための道具としてのみ、記号(言葉)が使われている。
それが楽譜である。
「音楽の立場」は、いつも優先的で正しいらしい。
記号や詩や言葉は、音楽の立場からの「道具」の範疇を超えることがない。
「記号化」されてしまった詩たちについて、記号愛好者は心から祝福することができない。
音や声のない、純粋な文字の並びである詩(言葉)そのものの景色を読み、眺めることによって初めて、その文字列の意味と静けさを認めることができる。
記号愛好者は絵を描くのが上手ではないが、文字を描く、ということならば少しはできる。
ペンを握ってただの白い紙の上において(凡庸に右手を)、なんでも良いから記号をすらすら書く。
意味があるものを書かねばならぬ、という「我の」意識からは遠く離れた場所で、気を許し、おそれがなく、ただそうしていることが心地よい。
まるで夢の中で鳥にでもなって空を自由に飛びまわっているように。
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