せっかちになる言葉
ぷつんと糸が切れたように、夏が終わった。ある日から先ははっきりともう、夏ではない。
だからと言って秋というのでもない、とにかく夏は終わった。
唐突に場面が変わる古いモノクロ映画のように、夏がぷつんと終わった。
「あいだ」の季節には、光が変わる。
光の傾斜にノスタルジーが透けている。
軽く薄く、枯れかけの薔薇のような香りがどこかから漂う。
高くなった空に雲が浮遊する。
鼻から息を吸うと鼻腔全体が澄んだ冷たい空気で満たされる。
忘れたい過去のことではなく、美しい思い出ばかりが蘇りやすい。
どこか遠くの知らない街に憧れるという、身体的な現象が起こる。
なにかの本で読んだことがあるのだが、季節の変わり目には骨盤が動きやすく、骨盤の状態によってその時に見る夢や感情の襞が微細に変わるらしい。
みずからの情緒に振り回されるということは、すなわち骨盤に翻弄されているということ。
日の縮小が加速していく。
真夏は夜の22時近くまで明るいのに、今はもう20時半には薄暗く、家々の明かりが灯る。
明日の日の出は6時半。朝5時から6時の間に、賑やかな鳥たちの声と凝縮して絞り出された朝日の粒とともに目覚めて、そのようにしてせっかく身についた早起きの習慣が、鳥とともに逃げて行ってしまった。来年、またやり直しだ。
哲学者が真夏に書いた文ばかり集めたものがあれば、是非それを読んでみたい。
燦々とあかるく熱した陽の下で、こねくりまわされた思考や哲学が生まれる瞬間があるのだとすれば私はそこに居合わせてみたい。
夏は外へと意識が向かう、社交的な季節。
思索の矢印は自分自身の内面へなかなか突き刺さっては来ず、外側へ出て行こうとする。
言葉は外の何かや誰かに向かって存在するもので、内省や独り言のために留まってはくれない。
言葉も少し、せっかちになる夏。
饒舌で、少し乱暴でまとまらない。
湿度の低いこの土地の夏は、湿気に弱く乾燥に強い私の体質に合っている。
他の季節と比べると、夏の体調はいつも良い。それでも私にとってのこの土地の夏は、物事を観察して書くという意味では一番向いていない。あまりにも爽やかであるから。
私の生きる楽しみは、ただ静かに、目に見えるいろいろの事象を観察し、それを表現するために適切な言葉をじっくり探しながら書く、ということ。この夏はどうしたことがそれが全く捗らなかった。思想や思索や言葉にも、バカンスがあるのだろう。
2020年8月 記
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